Junkoです♪
今回のブログはちょっと長いです。
私が今感じている動物や認知症の方の
命の在り方について…
ここ数日、私が感じていることを書かせていただきます。
うちの家族のむむちゃんが、難病発症して治療開始から11日が経ちました。
この間、命について生きることについて、いろいろ考えさせられました。
難病がわかってからの最初の1週間はとにかく何とか治療をして元気になってもらおうと必死でした。
発病から3日目で緊急輸血となる命の危機となり、1回目の輸血から5日後には、また2回目の緊急輸血が必要となる命の危機となりました。
冷静に考えてみれば緊急輸血が必要となり、その日にドナーとなるワンちゃんが病院に来てくれて、むむとの血液が適合し緊急自体のその日のうちにドナーのワンちゃんから血をもらい、輸血がスムーズに2回も出来たこと自体奇跡としか言いようがないです✨
2回目の輸血が成功したその日からむむにとっての『生きる』ということはどういうことなのか?
もし私が、むむの立場だったらどうして欲しいのか?
そんな問いを自分に投げかけるようになりました。
この先、苦しい治療でもどんな治療でも、やり尽くして無理やり生かそうとする行為は私が単に、むむとまだお別れしたくないだけであり、むむが苦しい治療を受けてでも乗り越えるから生かしてほしい!
その様に自ら望んでいることではありません
むしろ、むむにとっては注射や薬を無理矢理飲ませることはストレスや恐怖でしかありません。
何の意味で、その行為をされているのかさえ理解出来ないむむからしたら、ただの拷問でしかありません。
もっと一緒に生きていきたい…
それは飼い主である私がそうしたいと強く願っているだけであり、犬たちにとっては飼い主の強い想いや希望に従ってくれているだけに過ぎません。
ワン達は今日この瞬間、瞬間を前向きにありのままただ生きているだけ…
『認知症の母も実は同じです』
先ほど食べたお昼ご飯も少し時間が経てば食べたことすら忘れています。
毎日会う私の事や
毎日電話してくる弟の事
毎日通うデイサービスのこと
毎日のルーティンは覚えています。
でも孫の存在はほぼ忘れていますし、今は何月なのかも覚えてません。
しかし、認知症でも
感情がすごく揺さぶられたこと
すごく楽しかったこと
すごく新鮮だったこと
すごく嫌だったことや、怖かったこと
こういった感情が大きく揺さぶられた出来事は、ただ今この瞬間を生きている認知症の母親も、そして動物も記憶として残るのです。
だからこそ、本当に相手の為を思うのであれば、先が短くなったペットや認知症の母親にはすごく嫌だったこと、怖かったことの感情を記憶に強くインストールする行為をできる限り私は減らしていきたいと思いました。
多くの人たちが家族の病気が良くなるようにとあらゆる治療を試み、痛さや苦しみを何とか頑張って頑張ってと乗り越えさせようとしますが、
長く生きたい、もっとこうしたい
と言うビジョンや
未来の思いがない者達にその苦しみへの頑張りって必要なのでしょうか。
今回は、むむの病気と向き合いながら
私のもっと生きて欲しい、もっと一緒にいたい
と言う思いからむむを苦しめていくことにならないようにと、自分自身の心の想いと、私がむむならどうしてほしいか?と言うことのバランスを冷静に俯瞰して内観し見つめるようにしました。
ただ、今日1日1日目の前を生きるものにとっては、与えられた選択肢が自分で選択できない分、本当に相手にとって必要なものなのか、必要な選択をしているのか?と言うことを
関わる家族が自分がその立場だったら「どうしてほしいだろう」と言う思いで置き換えてみて
考える必要性があるのではないかと改めて思いました。
元の氣塾で言う『中道の意識』冷静を取り戻したら、そんな意識の中でバランスを見極めていく『選択』が重要であると感じられます。
愛を与える行為とは…
自分へ向けた愛の行為なのか?
相手のことを真に想う愛の行為なのか?
そんな問いを投げかける今回のブログからメッセージでした✨